サイトアイコン Junichi Shindoh, MD, PhD

私の家の近くの公園には、真冬に咲く桜の木がある。
冬に1/3程咲いて、春に2/3程咲く。
満開になることはない。

人知れず花をつけていて淋しい咲き方に見えるが、
生きるとはどういうことかを考えさせられる木だと前から思っている。

がんを扱う仕事をしていると
予後の話は避けて通れない。
テレビドラマのように1か月とか、半年とか、
正確な数字は我々には分からない。
だから、来年の桜が見れるかどうか、年を越せるかどうか、
我々は予後を「季節」で表現する。

標準治療とは、予後を最も延長する「確率」が高いと考えられる治療の選択法であるが、これは治療として正しいか・正しくないかという考え方に基づくものではない。
そもそも医療で「正しい」などという言葉を使ってよいと私は思わない。

私のところには進行癌の患者さんが多く集まる。
他院で切除不能と言われた、治療の意味がないと言われた、そういう人ばかりである。
普通に考えれば手術は避けるべきと考えられるケースが大半であるし、手術は不可能という判断をすることの方が多いのも事実だ。これは技術的にできるかどうかではなく、腫瘍学的に生命予後の観点で意味があるかどうかという判断によるものである。

進行癌になってくると有効な治療の選択肢は狭まり、むしろ余計なことをしない方がQOLを維持していく上では重要になる。痛い思いをして手術をしても、治療に時間が費やされるだけで予後は伸びないかもしれない。
我々が天秤にかけて考えているものは、治療の侵襲と、一人ひとりの人生の時間である。

手術は一般的に「根治」を目的とした治療法であり、「延命」を目的とした手術をすることは少ない。
癌に対するいわゆるpalliative surgery (姑息手術)が勧められないのは、これまで多くの外科医が挑戦をしてきて良い結果を生み出してこなかったからである。高侵襲の治療がマイナスに働く可能性は、進行癌であればあるほど高くなる。

しかし、実際の臨床現場では、我々に判断が委ねられる場面というものはある。
希少疾患、若年患者、高悪性腫瘍…
1分でも1秒でも生きたい。人は誰しも、そう思う。

最後の砦などという言葉を安易に使うことは許されないが、
医師の裁量において、自分の経験を総動員し、プラスに働く可能性があると考えるならば
他人の人生に責任を持ち、命を懸けて手術を行う。
私はそういう臨床をやっている。

悩みぬき、最大限の努力をする。
人事を尽くして天命を待つ。
プロフェッショナルとはそういう境地に達することだ。

今年のDDWにも講演に呼ばれているが、またそういう話を世界に向けてしてきたいと思っている。
私は名医でも神の手でもないので奇跡を起こすことはできないが、一つ一つの臨床判断が、自分と出会う人の運命を良い方向へ変えて欲しい。そう思ってこの臨床を続けている。

これを広く世の中に還元するためにはどうするべきかを何年も考えてきましたが
誇りを持って理想を実現できる場所を真剣に探し始めることにしました。

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