涙腺を刺激する声

人が心を動かされたり、感極まって泣くメカニズムというものは実は解明されていない。
正中前頭前野の活動が活発になるということは知られているが、それがどのような意味を持つのか
行動科学的な意義や必要性については明確な結論がないというのが実際のところである。

我々は歌を聴いたり、感動する話を聞いたり、
心に語り掛ける声色、テンポ、雰囲気、話し手の所作、様々な情報をもとに
「心を動かされる」
ということを経験する。

これはいつのまにか身につく人の社会的な能力であり、音楽をやったり人前に出る機会が多かった私は、人の心を動かす、人に心を伝える、表現するということの意味に子供のころから人一倍敏感であったように思う。

音声による感情の刺激は科学的に単純化して理解できるようなものではなく、それを再現することも難しいが、我々の心はたしかにそこに伝わってくる「心」の存在を感じ取っており、それは「実態」である。感動を起こす何か共通のファクターがあることは直感的に理解できるし、それを恣意的に誘おうという仕掛けを我々は仕組むこともできるわけであるが、科学的にそのメカニズムを解決したところでそれが我々の人生の何の役に立つのかというのは疑問のあるところであるし、心が感じるままに感じればよいと私は思う。人の心に届く表現を素直にできることは、その人の人としての魅力につながると私は考える。

声色、テンポ、雰囲気、所作。
そこにはその人の本質が現れ出る。
分かりやすい例だと、歌を歌う時。大勢の前でのスピーチや講演をする時。
言葉の表現や、言葉の選び方の一つ一つにはその人の本質が投影される。

本物なのか、見せかけだけのものなのか。
本気なのか、偽善なのか。
いまこの人は何を考えて話しているのだろうか?
この人はどういうバックグラウンドをもってそういう表現をするのだろうか?

そういうところに敏感であることこそが、人に共感できる能力であろう。
他者に共感する能力が高いことは概してよいことである。
しかし、そうした能力が高すぎると逆に辛い職業も存在する。
我々の仕事はそういう仕事だ。

目の前の人々の抱く病気や死に対する漠然とした恐怖にどう答えるか。
医者にはそれぞれスタイルがあり、そこには正解はない。

病気を治すのも、病気と闘うのも自分自身であると
患者さんはそれぞれ頭で理解していても
暗闇の中で孤独に闘うことができる人は少ない。
医療者が伴走者としてそこに寄り添ってくれるだけでも不安は和らぐものだ。

学生さんや若い先生たちに考えて欲しいことは、
病気を診る前に、手術をする前に、
臨床医の存在の何たるかを大切にして欲しいということである。

機会に恵まれること、肩書を得ること、
手術の数や速さなどという下らない指標を競う前に考えるべきことがある。
私は学生時代も、研修医時代も、
発展途上の自分にできることに限りがあった時代も、
自分が患者さんにとって一番近い存在であろうと思っていたし、常に自分が主治医だと思って皆に接していた。
臨床経過に何か問題があるときは自分も辛い時間を過ごしたし、
学生時代、研修医時代、外科医の時代を通じて長く診て、見送った人たちもいた。
そういう覚悟や責任を持って本当に臨床の場にいるだろうか?

臨床のスタイルや発想はそうした部分に大きく左右される。
臨床医として追求したいのは手術の超絶技巧ではなく、心の救いである。

我々の業界には、正義という名の偽善を振りまく人たちも多く存在する。
注目を集めるためにあえてヒール役になったり、派手な活動をする方もいる。
しかし、私が患者になったときにかかりたい人はそういう人たちではない。
本物であれと教え子には言う。
心に響く語り掛けができてこそ、救いが生まれる。
私はそう思う。

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