治るかもしれませんし、治らないかもしれません。がんと診断されるといつかは迎える自分の死の影が見え隠れするから人は動揺します。生物は老化する以上、100%死を迎えます。人生が長いのか短いのかは「結果論」であり、予想はできません。私も何千人ものがん患者さんを診て、何千回もメスを握り、何百人もの方を見送ってきましたが、そこで見えてきた景色というのは、人の人生というものはかくも「運」に左右されるのかということです。
 がんは難しい病気です。「治る」とか、「治らない」とか、「正しい」とか、「正しくない」とか、クリアカットな世界ではありません。運命として受け入れなさいと言う人もいるでしょう。しかし生きたいと願うのは誰しも同じです。私が思う「運命」とは何かについて触れ、それを私からの最後のメッセージとして100の疑問を締めくくりたいと思います。
 がんの治療経過にはいくつもの分かれ道があります。発見に至るまでのきっかけ、選んだ医療施設、出会った医師、治療の選択、そこから始まる様々な臨床判断。再発、化学療法、何を使って、どのくらい治療するのか、効き目をどのように評価し、次の選択肢をどう考えるのか。一つ一つの分岐点がその人の終着点を決定づけます。第5章Q30で、進行癌症例に対する集学的治療からの起死回生の手術に触れました(図11)。こうした症例は決して稀なケースではなく、多くの外科医が手に負えないと諦めてしまうような症例の中にも、治癒や長期生存の可能性を秘めている症例が一定数存在しています。そういった経験をしたことがあるかどうかによって、医師の発想や臨床判断には大きな違いが生まれます。
 初診で運命を決めつけてはいけないということを、私は卒後10年前後の若造のころから医師向けの教育講演で何度も話をしてきました。生きたいと願う多くの患者さんと共に命の瀬戸際で闘い、自分の中にあった「可能性」が「確信」に変わった時、それを我々の分野に還元し、多くの外科医の批判と追試を経て、新しいエビデンスとして世に送り出す。それがhigh volume centerで働く自身の責務だと思って、20年近く同じスタイルを貫いてきました。
 職人としての外科医の「経験」というものは、手術手技であれ、臨床判断であれ、主観的で形にあらわることが難しい「アート」です。そこにデータに基づく客観性を持たせ、「アート」をいかにして「サイエンス」へ昇華させるか。外科医の経験をどのように言語化し、後世へ伝えていくか。それが私のライフワークであり、たとえ小さな一歩だとしても、世界のがん医療の底上げにつながっていくものと信じてやっています。
 世界中のがん診療に携わる医療者は多かれ少なかれそういったことを日々考え、アカデミアの場に英知を蓄積し、それが議論され、新しい医療が形づくられていきます。医学は常に発展途上であり、完成された学問ではありません。しかし、5年後、10年後には今とは全く違う世界が待っています。がんと診断され、治らないと言われたとしても、長生きすればするほど生きるチャンスは生まれます。今の医療では暗中模索でも、「治せない」という今日の常識が明日の非常識になるかもしれません。ですから、生きる選択肢がある患者さんに対しては、「諦めてはいけない」という言葉を私は敢えて使います。
 運命とは受け入れるものではなく、見極め、創造するものであると私は思っています。がんになってもすべての人を救うことができればそれ以上のことはありませんが、現実はそう甘くはありません。しかし、がんと診断され、もう治らないと言われて暗闇の中にいるとしても、一筋の光が見えることもあります。初診で運命などわかりませんし、その場で運命として諦める必要は必ずしもないと思います。治療を行いながらその先を見極め、可能性を追求する姿勢こそが最終的には生命予後を延長します。ぜひ世の中の無責任な情報に流されず、ご自身の人生を大切に生きて欲しいと思います。そのサポートをするために我々は存在するのです。

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