孤独との闘い

定期的に過去を振り返る。
外科医としてよかったと思えることもあるし、ずっと心に引っ掛かり続ける思い出もある。いつまで経っても定期的に心に負担が来るのは救えなかった命を思い出す時である。いくら考えてもいまだに原因が分からなかったり、ああすればよかったかもしれない、こうすればよかったかもしれないと結果を振り返って考えたりする。

4年以上前に術後早期に動門脈閉塞で失った患者さんがいた。病理解剖までおこなって、術前の処置(門脈塞栓術)と残肝の区域性胆管炎が影響を与えたものと考えられたが、どんなにビデオを見返しても、あれから何百例も症例を重ねた今でも、何ができただろうか、何ができるだろうかの答えをいつも考えている。

神の手だとか、ブラックジャックとか、スーパーDrという呼称が私は嫌いだ。どんなに手術が上手だと言われる外科医も、はじめからそうであったわけではない。我々外科医は職人であり、科学者であり、どんなに有名なDrもそこへ至るまでの長い過程を経ている。周りからもてはやされて嫌な気はしないだろうが、我々の目標は名声を得ることや有名になることではない。専門家としてやりがいに思うのは、自分の信念で手術を行い、患者さんに感謝されたり、自分達の努力が世の中をよくしているという実感を得られるときであって、それ以上でもそれ以下でもない。だからそういう呼称は安っぽいと感じる。我々はそれこそ自分達の命を懸けて、首をかけて日々仕事をしていて、それは一朝一夕にできるものではないのだ。

肝胆膵外科の手術はいくらやっても手技上のリスクとの隣り合わせである。1mm未満の誤差が術中に大惨事を招くこともある。手術が荒れた時、外科医は孤独だ。術野の状況がそれ以上悪化しないようにコントロールしつつ、様々な可能性や次の手を瞬時に判断し、適切な1手を打つ。チームの総合力が高ければもちろんよいが、卒後数年目のレジデントを相手に手術をしているとき。他院で肝胆膵外科の素人相手に高難度手術を行うとき。海外でライブ手術を行うとき。緊急時の司令塔となり、直接手を下して状況を打開できるのは自分しかいない。だから常に3手先、4手先を考えながら手術を進める。手術は音楽を流しながらやる外科医が世界共通で多いが、私はいつからか音楽を流さなくなった。視覚と触角と、モニターからなる心拍の音を聴覚で感じ、感覚を研ぎ澄ませながら今日も手術と向き合う。

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